日々の考察しるし

かたっくるしく、尚且つ無編集のブログが売りです。

一般論の帰結

しばしば欲望とは際限のないものだと語られる。これは実際に例を挙げてみると分かりやすいので、①味覚②聴覚③知覚を基にして各々の構成要素を分析したい。そして、これらにはどうも共通する箇所があることが私の分析結果だ。更には人間の幸福度もどうやらこれに関わっているようだがそのことについてはいずれ深く考察しなおす。

 

  1. 人はうまいものを食うと、それ以下の味のものでは満足しがたくなる傾向がある。うまい焼肉屋(品質の高い肉が提供される)を知っていて、それでもなお不味い焼肉屋へは行かないものだ。(もちろん、店内の清潔さやらスタッフの行儀やら価格も影響されるがひとまずそれらは全て考慮しないこととしたい)
  2. アマチュアの音楽団が提供するクラシックよりも、よりすぐりのプロのクラシックを聴きたいとするのは、あたりまえのことではなかろうか。(例のように、会場の客の行儀やら価格やらは考慮しないこととする)
  3. 我こそはマルクスという人物の考えを深く理解したものだ、と宣言するものにとって彼の考えを稚拙にしか理解しえない知識人と会話する(知識を共有するという意義であり、この場合啓蒙的な意義ではない)という行為は望ましくないし、同じく理解を深くしたものと会話したいものだ。

 

これらの感覚は各々が孤立しあうものではあるが、すべてがその人の優越感を見出すきっかけに直結する。それと同時に、より高度なものを享受しなければ満足できないという皮肉を内蔵する。人は優れる分だけ、幸福にもなれるし不幸にもなれるということだ。この構造が明確にわかる端的な例がある。それはネットに挙がる批判コメント(単なる野次ではなく、根拠が記載されているもの)である。なぜユーチュブで挙がっている音楽にあえて批判的なコメントを残すのだろうか、どうして食べログにはわざわざその店の味が不味いなどと記載するのか。それは自分がもっと素晴らしいものを提供してくれる存在を知っているという紛れもなく優越感に浸らんとするためである。あるいはそのような存在(批判される対象)に何かしらの憤り感じて、評価しようとする執行心からきているのか。いやどうもこれというのも高圧的である以上は優越感に浸っているではないか。しかし、それは皮肉にも彼がそれ以上の品質のものでしか満足しえないという事実をも肯定してしまっている。そしてなによりクオリティーの構造はピラミッド式であり、程度の低いものであるほどその数は多い。上位のものを求める分だけ、もちろん資金は必要になるし、時間もかかってくる。確かにはじめのうちは良いのかもしれない。なぜならより高品質であるものを求める探求心が、求めているあいだの空白(鬱憤)や(得てしまった低品質への)苛立ちよりも、優っているからである。

 

私は別にこれでいて人に対して嘆きを抱くわけではない。これらを考えれば考えるほど、やはり節制というものが必要であることを思い知らされるのだ。結局は一般論に帰結するのだが、自分で得た一般論の重みというものは、どうも説得力がある。

民主主義考察

便乗ではないが、なにやら吉本新喜劇の座長さんが「行き過ぎた民主主義よりは独裁の方がええやん(2016/4/13)」と述べた。ネットではこのことについて、多くのバッシングを浴びせたられたようだ。ここで先に私の見解を言うと、現状の民主主義を続行するくらいなら、独裁の方が、人間がより幸せになりやすいという意味合いで良い。しかし、私は民主主義を望む。これから述べることの順序としては、①民主主義と人、②独裁を望んだ知識人、③これからの民主主義、となる。

 

  1. そもそも人は民主主義を望んでいなかった。自分たち民衆が主権者となって政治を行うとしても、民主主義である以上多数決を行う必要がある。せっかく自分があくせく考えて選んだものが無駄となってしまう可能性が生じてしまうこともある。それこそが若き民衆との政治意欲の自発的な障壁となってしまった。それは民主主義確立以前の人にも当てはまるし、今日の人にも未だに当てはまる。しかし、多くの人がその政治形態を望んだことによって晴れて民主主義というものは実現された。ではなぜ望んだのか。それは他でもない我が身に迫る危機が民主主義確立期ないし直前にはあったからである。例えば、民衆に国を豊かにする以上の重すぎる税を課して、自分の懐ばかりを肥やす暴君が生まれれば、それだけ彼らは自分の身に危機を感じる。(この例は民衆がその被害者だが、民主主義の歴史をたどると、始まりは貴族がその被害者である)逆に、その独裁者が賢明な者であれば、それだけ民(一部のマイノリティーを除く)は自分の主とする仕事だけをしていれば豊かになれたのだ。この場合民は、自分たちが主導の政治をしようとなどは思わないことが、多数決の件もあってわかるはずだ。このようにして、独裁者の政治が善し悪しを行ったり来たり繰り返したせいで、すぐさまに民衆が危機を感じることはできなかったのかもしれない。もちろん貴族と民衆は着々とその危機を感じ取り、事の発端はマグナカルタ、次にビルオブライツ、そしてアメリカ合衆国憲法が作成されていったように、長い歴史を見ると民主主義へとは進んでいる。 
  2. 先ほど挙げた独裁者の後者が常に政治をしていれば、これほど民衆にとっても、政治を行う側にとっても、有り難いものはない。これを古代の知識人(哲人)らは、実際の政治形態にも想定していた。しかし、善き独裁者は続かないのである。なぜなら、その王が勝ち取った栄華というのは、その王だけのものであり、息子にその権益は授けられない。賢き哲人が国を治めることに成功して、後継者がその賢き哲人に認められても、後継者はその賢き哲人ではないのだ。また、その賢き哲人が自分の国の全国民を、見て回る時間はない。ここに公平性の欠如も見受けられる。これらから言えることは、善き独裁者というのは必然的に続くものでは決してないということだ。より合理的にそしてより公平に、万人(マジョリティー)のための政治を行うには独裁主義というのは選択肢としてないのである。もちろん、ここでも注意が必要である。それは、規模と人権の問題だ。そもそもその古代の知識人らが生きたアテナイの人口は二十万人ほどであり、内奴隷は三分の一ほどもいた。このような中での善き独裁というのは、現代の一国の善き独裁に比べて容易い。つまり、必然的な善き独裁が続かなくとも、偶然的な善き独裁は起こりやすいということだ。なぜなら人口規模が小さければ小さいほど、独裁者は民衆らをまとめやすいし、奴隷には好き勝手な重労働を課せられるからである。つまり、その組織の人口規模が万単位以下で、尚且つ奴隷のように扱える存在(弱者)がいれば、善き独裁はそれだけ可能性として考えられるのである。たとえ古代の知識人であっても、異常なまでの人口爆発と、奴隷制度の全面的な撤廃、女性の社会進出を想定できていたようには思えない。そのため、彼らの主張は時代の異なる我々に少なくとも独裁国家の是を認めさせるほどの説得力はないのだ。
  3. だが、彼らの言う民主主義の危機をうまく払いのけているとは今日の社会を見る限りでは到底言えない。ナチスを例に挙げるまでもなく、もっと身近なところに民主主義の落とし穴がある。それが、民主主義の大本は民意の質と議論が大前提にあることだ。私はこの両方を同時に向上させられるものとして、慣習の再確認が向いていると思う。今の慣習は、なぜ守らなければならないのか原因結果の因果関係を分かりもしないのに、社会が父権的な圧力を掛けているから、ただ守らなければならないとする空気である。この圧力を作り出している社会というのは、他でもない民衆だ。そして、その民衆ですら、なぜ守らなければならないのかを客観的に述べることはできない。つまり、普遍的な説明が出来ない。この空気がなにであるのか、どうして守らなければならないのかを民衆各々が考えれば、少なからず民主主義の大本となる民意は向上する。そして、その是非を各々が日常会話で何気なく話すことが難しくとも、一定の機関を設けて話し合う機会があれば、議論の確保となる。

つかれたのでとりあえずここまでとする。

 

生命の誕生

実に二年前のことだが、私にとって最大の考え事の一つとして浮上したのが、生命とはどこから生まれたのかという問いである。今回はこのことについて、ひとつ仮説が立てられたので記録しておきたい。

 

はじめに、ユーリー、ミラーの実験(1953年)によって、元々地球が誕生した当時の物質(水、メタン、アンモニア、水素)で、数種のアミノ酸、核酸の成分であるプリンやピリミジン、ATPの要素であるアデニンの生成が可能であることを確認しておきたい。正直なところ、原因結果の段階しか理解できておらず、細かい仕組みなどを分からない。しかし、この実験結果によって、原始的な地球上でも、単純な生物の構成要素は作り出せることがわかった。

 

次に、私が挙げる仮説を端的にまとめたい。それは、生命という概念そのものが誤りであり、存在しえないということだ。今からそうと思われる筋道を述べていこう。人類とは複雑な構造を持つ物質であり、炭素などは比較的単純な構造を持つ物質である。そして生命は生命たる条件の一つとして、繁殖することで増えることを望む。その歴史をたどると、単純な生物から複雑な生物へと数多く分岐している。この複雑な、という部分が、この先に登場する物質らの岐路にも当てはまる。①星は最終的には超新星爆発(膨らむ)を引き起こし、分裂してまた新たな星をいくつも生み出す。そしてその星は悠久の時を経ていずれ大きくなる。これらの星々も多種多様な要素を持つものへと変化している。②宇宙誕生時に存在した原子に比べて、現在ある原子の種類は明らかに増えている。つまり、複雑な原子が増えており、また一方で複雑な結合が可能となっている。

 

このことから立てられる推測がある。生命とは、原子らの持っている「さらに複雑化する」という性質が引き起こした原子の集合体なのではないか、ということである。我々人類は少なからずサルよりも物事を考えるようになっている。そして当然サルはバクテリアよりも物事を考えられるようになっている。物事を考えられるようになるというのは、複雑化した証なのだ。体内の器官を見ても、閉鎖血管を持つ哺乳類は、明らかに開放血管を持っている魚類よりも複雑化している。好気細菌を取り込み、シアノバクテリアを取り込んだミドリムシは明らかに従来(それらを取り込んでいない)のそれより複雑化している。いわば生命が繁殖したい欲望を持つのは、その過程で得られる複雑化への「きっかけ」を歩むためなのではなかろうか。そしてその複雑化への期待は、各々の原子も持ち合わせているということだ。

 

しかし、数年後かにはまたこの仮説は変わっているかもしれない。ちなみに以前までは、ただ一度だけの神のこの世界への干渉を前提としていた。

偽善とは何だろうか

 

なぜかタイトルは毎回こう、かたっ苦しいのがいけない

しかし、これが私なのだからこれも仕方がない。

 

ところで、今となってはありふれた話題で、ホットの話題というわけにもいかない。   だが、やはり一度決着しておきたいものの一つが「偽善」の意味だ。もちろん辞書的な 意味は確認済みだが、どうもこういった言葉は時代の流れで掘り起こされて、違った意味で多くの人が使われる。また話が長くなるため、要点を言うと「善とは絶対的なものであり、故に存在しえない」だ。

本題に入ろう。まずは文字の作りから着目したい。すると、「偽善」があるからには「善」があるということがわかる。そして、この善というものの起源は、ソクラテスとその弟子プラトンだ。だから、彼らの言う善こそに、善のエッセンスがあるに違いない。前者は善く生きることを人間の理想人生に掲げた。一方の後者は善のイデアの存在を立証した。イデアとは話すと長くなるのだが、人間のイデアは穢れなき魂のようなものだ。人間が死ねば肉体(檻)は滅びて、魂はもとあった神々の国へと回帰する。人が美しい花を見て感動するのは、「美しい」という感情がその花のイデアに対して観想(神々の国にいたころを思い出す)を起こしたからだ。美しいイデアの備わった花は誰が見ても美しいと思う。なぜなら人そのもののイデアがみな元(神々の国にあったころ)は共通(普遍)だったからである。そこで、今回挙がっている善のイデアとは、誰しもが思う善、いわば絶対的な善の存在という意味になる。話が前後するが、ソクラテスの善く生きるとは、私にもイマイチ分からない。しばしばこの実践例をソクラテスの死を挙げる人がいるが、これは正しい実践例とは言えない。 ソクラテスは結局のところ、逃れられる死を逃れなかった。死刑を受け入れたのである。 だが、逆らわずして死ぬことが果たして善いことなのだろうか。社会の過半数がソクラテスの死刑を望んだが、その残りのものは断固として死なせないことを望んだ。有名なソクラテスの弁明の中には、ソクラテスは死ぬことで偉大な先人たちと問答できるから、喜んで死んだ、と書いてある部分がある。彼の真意は分からない。

 

今見てきたように、プラトンは絶対的な善を仮定にしていた。尚且つ神々の干渉も前提としていた。これらは現代世界には通じ難いものがある。だが少なからず、善の存在は絶対的であり、その絶対性は神の存在が必要だ。となると、善など存在しないことが解わかる。

人の手しか加わらない善は、もはや偽善とならざるをえない。また、自分がたとえ善行だと思っても、他人が見れば偽善なのは必然である。なぜなら、これも個人がどう判断するしかないからだ。だが、それでは殺人をその人が善行だと思っていたから、それはそれでも良いという解釈にもなりかねない。人が善く生きる前にはすべきことがある。つまりはそういうことなのかもしれない。

 

オタクで苦しむあなたに

今回はオタクと言われて学校生活で不自由な思いをしている方へ向けての記事となる。

もちろん、不自由か否かは主観的な判断なので、端から気にならないという方は素のまま生きてほしい。

 

今回の要点を先に述べると、「オタクであることを誇れ、恥じる必要はない」だ。

 

学校生活で最も悩むものはなんだろうか。それは、理想の自分と現実の自分とのギャップである。そしてその理想とは大抵が「人気者」になりたいことではないだろうか。誰しもが、もし人気者になれるのであれば人気者になりたいと思う。その人気者(ここではAさんとする)の条件とは、万人受けが良いことだ。

具体的には、Aと友達であることが他人にバレても恥ずかしくないこと、すなわちA自身に性格問わず異端要素がないことである。つまり、Aがどれだけ他人に優しかろうと、やたらとアニメ好きだったり、オカルトマニアだったりすると、Aが友達であることに抵抗を感じられるのだ。故にその場合Aは人気者になれない。

だから、オタク(部類に拠るが)は基本的に人気者になれない。そこで人気者になりたいオタクはオタクであることを隠そうとする。アニメがとても好きなこと、ゲームがとても好きなことなどを他人に隠して接する。そうなると、その子は非常に不自由な思いをすることになる。なぜなら話したいことを話さないで、自分を根本から偽って、偽った自分を友達として他人に受け入れてもらっているからだ。ゆくゆくは、そうまでして手に入れた友達といることを、自分自身で面白いのかつまらないのか分からなくなってしまう。もはや、自分の周りに誰かいないと不安になってしまう。

 

友達は本当に作るべきだろうか。親や社会はYESと答えるだろう。

しかし、私からの応えはNOだ。友達というのは勝手に、ごく普通に、すなわち自分をさらけ出していても、なぜかいつの間にか話している相手の事を言う。だから友達をそもそも作るという表現自体間違っている。そして、自分をオタクであることを隠しても、熱中できる趣味を語り合えない話し相手といても、つらいだけだ。ところでそれを親の目線からすると、子供の内から他人と合わせられた方が良いというかもしれない。しかし、子供のころから他人と合わせて(自分を歪める)、何が自分だろうか。子供のころに自分を知って(他人にさらけ出す)失敗して、うまい具合に公では自分を丸くできるようにするのが、あるべき形だ。そして失敗しても、親がその失敗を無駄とダメ出ししない限り、子供は挫折しない。

 

だから、子供であるあなたは、オタクであることを誇ることだ。もちろん、誇りが過ぎて、他人への押しつけとなってはならない。相手を傷つける趣味(喧嘩、薬物)でない限りという条件つきではある。

どういう経緯で神のような超越的な概念が生まれたのだろうか。

 

神の起源としては、モーセの十戒に登場するヤハウェか。十戒と称する通りこの神の存在意義は「戒め」だと言える。すなわち人を個人単位で放っておくと何をしでかすか分からないために、人を超越したものが存在する必要があると、当時では考えられた。しかし、この後ユダヤ人による選民思想が色濃く出てきたため、戒めは戒めでも方向性が変わったように思われる。そしてこれは仏教での上座部仏教に成り立ちの事情こそ異なるが、ゴールの内容は酷似している。

 

一方で仏教つながりの大乗仏教をみると、日蓮の思想、悪人正機では仏が人を戒める存在とは到底言えない。先ほどの登場の仕方が消極的な見方であったのに比べて、今回は積極的な見方となっている。

 

神と仏、どちらが上かなどは私のような無神論者(ただし神がいるということには賛成だが、世界に干渉する意味合いは否定的)にはどうでも良いことだ。肝心なのは、どうして神がこの世界に干渉しなければならなかったのか、ということ。この世界を創ってそのまんまでも良かったはず。しかし、人は神の干渉を強く確信していた。ここにも人の根本的な願望が秘められているようにも思われる。

 

加えて「内在」ではなく、存在という客観的な意味合いを望んでいたのも興味深い。というのも、キリスト教の生みの親イエスキリストの言葉の中には、神の国とはただ中にある、つまり各々の心の中にある、というものがあり、当時のローマ人はこれに反発した。存在しなければならないのだ。ただ主観的に目視可能、認知可能では意味がない。宗教とは自分だけが信じていればそれで良い、というわけにはいかない。誰かにも何故か教えを共有しなければならない。昔も今も、そのことは変わっていない。

学校

私が卒業するころには、私の大学はどうやら合併してしまうらしい。このことについて当学生の多くが、どちらの名前を取るやら学部はどうするやら揉めている。

 

しかし、私には今のところどうでもいい。それは別に卒業するまでは大丈夫だからとか、そういう理由ではない。学校に今のところ誇りを持てていない、それが理由だ。

ある本で私は、学校の卒業生というのはその学校を基本的に褒めると書いていた。だが、どうも私にはそれがピンと来ない。どれだけ有名校を出たところで、その学校に何か自分の居た証、蹄を残せない限り、そこに自分が居たということにはならない。逆にどれだけ抵当な学校を出ても、自分がその学校に何か貢献できたと胸が張れるのであれば、それは社会的に誇れることだと思う。独りよがりでも良い。そんな独りよがりもできない人間が一貯前に、私は○○大学を出ました、と大きく出るべきではない。

 

学校とは自分である。若き人生、されど価値観が固まるまでのほとんどの期間を学校で過ごすのだから、この言葉は過言ではない。

その学校に何か残せただろうか。それを考えるうえでやたらと学校にいた当時の自分を卑下する必要はない。

自分を少しでも成長させられたのなら、それは大きな学校への貢献なのだ。だが何をどう成長したのかは、考えなければならない。でなければ、その人の成長は、いつまでたっても成長にはなれないのだ。