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日々の考察しるし

かたっくるしく、尚且つ無編集のブログが売りです。

ブログ書くにあたって

久しぶりの投稿となるが、今回はなぜ私がこのブログを始めようと思ったのかを整理してみたいと思う。そもそもことのきっかけはあるようでない。

思い返してみれば、私は社会のあらゆることに憤怒していた。タバコのポイ捨て、電車のマナー、(大学の)講義マナー、テレビで単純化される事柄…etc
挙げるとキリがない。かといって、電車のマナーを当事者らに注意することを怠っていたのも事実だ。そこで始めたのがこのブログであった。私は普段から物事を考えるのが大好きで、せっかくだから記録しようと思ったのである。しかし、この目的と普段から抱いていた憤怒は繋がるのだろうか。

おそらく繋がっているようには感じる。というのは、物事を考えるには何かしらの刺激が必要であり、その刺激こそが憤怒であったからだ。だが、そこでもうひとつ思う。これは単なる愚痴ではないだろうか、私の単なるわがままなのではないか、と。
ただ単に、そういった社会(上記の事例が当然とされる) に順応できない葛藤を、私は綴っているのではないだろうか。私はいまその事に悩んでいる。

私にとって高等な目的を思い描くことは簡単だ。しかし、常に高等な目的を糧にして、物事を起こす気にはならない。結局私はそんな立派な人間ではなかったのだ。だからこそ、常に考える必要がある。こうやってブログに残す必要がある。そして、多くの人にあらゆる疑問を提起し続けたい。もう違わない。

人をアホにする科学

今日、久しぶりに啓蒙的な番組をテレビで観た。内容は、疑似科学についてだったのだが、何とも考察が薄っぺらで、もう少し何とかならなかったのかと思わされるほどだ。今回は、実際に番組で扱われた例を挙げながら、意見を述べていきたい。中でもその例は①幽霊の存在、②占いの信憑性と分けて最後に結論を述べたい。

 

  1. 幽霊の存在

まずは番組での扱われ方だが、簡潔にまとめると、幽霊というのは人間の危険回避能力が生んだ幻想に過ぎない、というのである。そのことの真偽はおそらく真に近いと納得がいく。しかし、それだけで一部の人が幽霊の存在を強く肯定するようには思えない。なぜなら、幻想によるものだと理解していてもなお幽霊がいると主張する人たちは後を絶たないからだ。具体的にいうと、Aさんは暗闇の中で霊に遭遇したとする。そこでAさんは理屈でもって、その霊をいないものとしようとする。だが、そんな途端に冷静になれるだろうか。いるものだと思って信じていたものが、いないものだと思考を180度回転するのは不可能に等しい。もし、そんな途端に冷静になれるのであれば、Aさんは端から霊の存在を信じていないと解釈すべきではないだろうか。つまり、端から理屈だけで幽霊の問題を解決しようというのはナンセンスであり、ことはそんな単純な話で終わらない。幽霊という感覚的な概念には、感覚的なプロセスを踏んで考えなければならない。実際Aさんは理屈でもって霊をみたのではなく、視覚という感覚でもって霊をみたのである。正直なところ、みたものをみていないとするのは、困難なことだ。そこで思うのは、そのままで良いのではないかということ、つまり霊が見える人はその存在を信じればいいし、見えない人はその存在を信じなければいい。そもそも霊とは万人に見えるものではない。見えないものの存在とはすなわち存在することの立証も、存在しないことの立証もできないのだ。なぜこういった科学の解りやすい部分だけをピックアップして、人は自分とは相いれない人のことを理解した気になろうとするのか。これは次の②にもあてはまる。

 

 2.占いの信憑性

占いを信じると言っても度合は必ず人によって異なる。運勢占いをみるすべての人が、その占いを信じ込んでいるわけではない。そんなに人はアホではない。だが、番組では占いや、お守りの効能を信じる人すべてが一緒くたに、ねっからそれらを信じ込んでいるように扱われていた。信じる図式を、ある法則性を見出すことによって合理化していると番組では述べられていたが、なんだか無理が過ぎるものに思われる。実際取り上げられていた例に則すと、交通安全のお守りをして安全運転を心がけるドライバーが、お守りの効能を信じ込んでいるように描かれていた。何とも滑稽な話に映るような演出だが、そんなアホなドライバーは実際何人いるだろうか。少なからずドライバーは安全運転をしている時点で、お守りの効能など信じていない。この際のお守りの本来の位置づけとは、神的恩恵を願うための対象ではなく、感謝の対象である。その日も安全に運転できたことへの、何かしらの感謝を示していると解釈した方が、合点がいくのではないだろうか。事故しないという結果を、自分の運転こそがすべての原因にある。そうドライバーが思うことを先天的に抑止して、初心を忘れないための戒めとしてそのお守りはあると言える。あるいは感謝と、気休めとしての二重の意味を持つとも捉えられる。このように、本来複雑なはずの人の信仰心のメカニズムが実は簡単なものだったとするこの番組は、稚拙極まりない。これを観る視聴者が霊や占い、お守りを信じる人を小ばかにしないことを願うばかりだ。

いじめとは何だろうか

この記事は、私の諸事情により消去します。

意識高い系

今日、おおさか維新の党の開く学生マニュフェスト会議というのに出席した。目的は、二つある。すなわち自分の掲げるマニュフェスト、議論の授業化を公表するため。そして、もう1つが優越感に浸るためである。今回は主に後者の考察をしたい。

優越感、自分は日本の民主主義について考えているということを、得意としていたのが本音だ。そして今日、自分は他人とは違うんだ、というその自信を生み出していたが、まさに根底からひっくり返されたのだ。自分は別に特別ではない。探せばいくらでも自分と同じ年齢でその境地に達した人などいる。今まで自分はその「探す」行為を意図的に怠っていた。そして今回明らかとなった事実は自分に話し合う仲間がいるという共有観念から抱かれる幸福感を与えるのと同時に、抱かれるべき不幸でもあった。

しかし、自信を消すという部分的な不幸ではあるけれど、全体を見れば喜ばしいことだ。なぜならその自信は自分が単に自惚れていただけに過ぎないのだ。そして、自信とは常に自分で勝ち取り、自分で喪失させるものなのだ。一度奪われた自信は、更に確固とした自信となって返ってくる。

意識高い系人間というのは、そういった意味で創造的破壊を内部で起こす人なのかもしれない。意識が高いということは他者に自分の意識を発信しなければならない。ゆえにそれだけ自分の意識は別に高くなかったということを知るきっかけを作ることにも直結する。なんということはない。意識高いということを誇ればいい。そしてそのぶん挫折すればいい。

民主主義考察その二

以前の考察では、結局のところこれからの民主主義には民意の質と議論が必要であるというところまで述べた。今回はそれら二つがなぜ必要なのかについて述べたい。例のごとく文章の流れは①民意の重要性、②民主主義における議論の存在意義、となる。

 

  1. まずは本題に入るまえに、民意の意味を確認しておきたい。辞書的な意味では民衆の意志であるが、そうすると意志とは何なのかという話になってくる。しかし、ここではそのことについて深く議論すると、話の趣旨から脱線してしまうため、大まかに民衆の望む傾向、流れだと解釈してほしい。そこで本題に入るが、民意の質がなぜ高いものとなっていなければならないのか、これについてはその逆を考えてもらえばわかりやすい。つまり、なぜ民意の質が低いといけないのかということである。民意の質が低いということは、それだけ民衆の望む傾向に統制がとれていないということだ。簡潔にいうと各々が自分の好き勝手なことを言い出して、結論がまとまらずに無生産な状態だ。経済学でいうところの囚人のジレンマが社会全体で起こっていると考えると、その恐ろしさがわかる。このように民意の質が低い社会(複数の人が集まって構成されるコミュニティー)というのは、一定の妥協点を民衆自らが会話によって見出し決着させられない不毛な議論が続くものである。これは民意の質が特に、ある人の人権と他の人の人権という最高の権力の衝突を解決するために特に重要だとも言える。

 

  1. 議論について今まで散々触れてきたが、議論とは何だろうか。辞書的な意味では「自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして、論じ合うこと」となっている。ここには結論を出すこと、あるいは妥協することについては触れられていない。つまり自分の言いたいことを言うだけ言って、相手が論じて自分が聞くときには聞かないのも議論なのだ。なんと不毛な子供の喧嘩であろうか。しかし、それこそが先ほど述べた民意の質が低い社会に起こりうる議論なのだ。そこから分かることとして、議論というのはその社会における民意の質を顕著に反映すると言える。おそらく多くの人が思い描く議論というのは、議論の参加者が論理的にあることについて持論を話して、それに対応して相手が同じように論理的に持論ないし他の文献を引用して応える、そういったものではなかろうか。もちろん、これも議論ではあるが、極めて民意の質が高い(民衆の統制がとれた)議論のあり方だと言える。今回、議論がこうあるべきだ、とまで踏み入った話はしないが、これからも考察するうえでどれだけの議論が約束されるべきか、ゆくゆくは結論付けたいと思っている。また、同時に私の掲げる、議論を義務教育の一環として科目化することもいずれまとめたい。

BF4での自分

こんばんは。
今回は考察ではなく、単なる自己紹介延長です。

私は、BF4というFPSゲームのRagzRagz13というプレイヤーでして、基本的にはmetroにいます。いわゆる突撃厨という部類で、突撃してはよく死んでます。

一年前の結論

一般論の帰結、あるいは訂正こそが私の求める自我の目覚めというものだ。そのことについてなぜそう思ったのか、そしてどういったメリットがあるのかを一年前に、つまり大学一回生のころに書いたので載せる。(以下独我論を踏まえているのだが、実際のところやはり自己中と独我論の意味は異なる。といっても、文章全体には差し支えないのでそのまま載せる)

人はある熟語の意味が分からない場合、その漢字の意味から類推する。そう考えると、独我論は世俗的な言い方に置き換えれば、「自己中」という言葉が当てはまる。些細なニュアンスの違いはあるかもしれないが、どちらも自分中心主義なものの考え方である。

日本で「自己中」な存在は非難されがちで、それは日本という国が協調性に重きを置いているからだ。群れで異なる行動をしているものは、それが倫理的に正しいか否かという判断することを待たずに、同化という圧力を掛けられることが多い。いたって動物的なものの考え方である。ある問題で、触れてはいけないタブーな内容が原因にある場合も、日本人はそれに触れず、見て見ぬふりをしてしまう。このように、自己中という言葉が潜在的で、なお明らかな悪あるいは異端者だとみなすようしむけたのは、日本人の伝統や、一種の仲間意識によるものだ。日本の小学生にヒマワリの絵を描かせて同じようなものが仕上がるのもこの伝統が反映されている。

 

そして、その伝統を壊そうと試みたのがゆとり教育である。そもそもなぜ伝統を壊す必要があったのか、それはやはり日本基準なものの考え方が世界基準に通用しないと認知したからだ。皮肉なことに、自己中を忌み嫌う日本基準を、世界でも通用するだろうと思って振る舞うと逆に自己中だとみなされてしまう。そこで、ゆとりを持たせ、自由に学ばせることで独創的なものの考え方を身に着けさせることが日本政府の目論見であった。だが現実ではそう簡単にはいかずに、結局は失敗に終わった。なぜならゆとり世代の親は当然、ゆとり教育を受けなかった人たちであり、彼らからしてみれば、自分たちが培ってきた常識が子供に通用しないのは好ましくない事態だ。ゆとりを得たからと言って、結局は親を含めた大人の言うことを聞き入れることしかできない子供は、自由な考え方などできるはずがなかった。だから、20代のゆとり世代が幅広く、日本人の伝統に縛られないものの考え方が可能かというと、言わずもがな可能ではない。むしろ、よりいっそう日本人の伝統でも負の部分が強調されたとも言える。それがノリという概念による仲間意識のルール化だ。群れに逆らう反乱分子は、彼らのコミュニケーションのなかで社会的制裁という罰で厳しく処罰される。ノリを理解できないものは自己中というレッテルを貼りつけられ、具体的には無視されるわけだ。それは社会でも同じことだろう。ボトムアップ方式を掲げる日本だが、官僚などのエリートに意見すること、上司に異議を唱えることは許されずに、下の者は言いなりとなるしかない。つまり、事実上トップダウン方式をとっているのだ。それに反して自由に行動するとは現状を変える恐れがあり、現状に満足している人間にとってそれほど脅威となるものはない。あるお題について自由に議論をせよ、とテレビで指示をされても一定の道があらかじめ設定され、議論はそのレールを走るのはそもそも結論など求められておらず、一部の者が、その議論をなんとなく良いように纏めて株を上げるためか、あるいは視聴率を上げるためか、どちらにせよ自由な議論など存在しない。終着点もあらかじめ番組側が設定している。また一方で、日本ではことわざや偉人の行うことには絶大な力が宿る。人を叱る際に、一般論で説教をする人もいる。それらが違った観点からみると、自己中であるかもしれないということを自分自身で吟味せず、伝統を鵜呑みにする。さらには、先人の考え方が必ずしも現代で通用するとは限らない、という「一般論」を知っているにもかかわらず、多くの人は実行しない。なぜなら表向きではそのことを理解しつつも、内心では一般論の批判などせずに、既定の一般論に流されてしまったほうが楽だと思っているからではないだろうか。先ほどから述べているように、自分の主張を聞かせるうえで、先人たちの遺した教え(一般論)は役立つため、それを批判的にみる者の存在は邪魔である。それゆえ、長く蓄積された一般論の根底を覆すような「一般論」は実行するに値しないと、どこかしこで思っているのではないだろうか。中には一般論をさも持論であるかのように振る舞うものもいる。そういった人にとって、一般論の批判は殊更に痛ましいはずだ。自分の存在を根本から批判されたかのように、全否定されたかのように捉えかねないこともあるのだ。

 

現代において、一般論の批判はそれほど困難なこととなってしまった。それでも一般論の見直しを必要だと私が述べるのは、多くの日本人が、いつまでも自分があくまで中心だと思うことに敬遠しているからだ。一般論とは読んで字のごとく、ある国の一般的なものの考え方だ。自分の目で自国の置かれている状況を見直すには、そういった一般論への批判的なものの見方が欠かせない。一般論を批判する、或いは改善を自己流で編み出すには、生まれ持っての才能などいらない。各々がそれぞれ、我を持つことで、一般論への疑問は浮上する。また、批判をするうえで中途半端な妥協で終わってしまうことは、なんら従来の日本の伝統を継ぐことと変わりない。人との会話、議論を交える中で、他者の意外な考え方を知ることもあるだろう。そこで「考え方なんて人それぞれだ」という一般論を思い出して、なるほど、と納得して終わってしまってはいけない。他の人の考えと自分の考えとは、どこがどう違うのか、その人の考えがなぜそうに至ったのかを聞いて初めて、その人の考えを認めたことになる。人それぞれと言っても、その考えの根源は同じかもしれないし、言葉の表現が違うだけかもしれない。意外と人の考え方など、人は人であるのだから相違ないこともある。

やはりその場でも、必要となったのが、「自分」という基準である。一般論への見直しを自分で考え抜いたさきの賜物が、たとえ多くの人に理解されなくとも、それは自分の考えを持つことにつながる。自己の考えを持つということは、自分中心的なものの考え方をするうえでの頑強な基盤を形成するのに必須なのだ。

 

自分を通すことは責任を負わなければならないという一般論は確かに正しい。だが、どこまで責任を負えばいいのかを日常で考えたことはあるだろうか。ここで、この一般論の見直しとともに、自分中心的な幸せに対する考えを述べていく。私はさきほどから自分中心主義を肯定しているわけだが、日常で我を通すということは、当然それ相応に責任が付きまとうことを意味している。そして、多くの人はこれを聞くと、自分の考えを公衆で主張することに対して強く敬遠する。なぜなら今日に至っては、仲間の意に反する意見を主張すると、それに伴う責任、具体的には仲間との疎遠や孤独、を招いてしまうことが多い。そのことを嫌ってかその場の雰囲気に流され自分を偽る。その方が楽だと主張する人も多くいるし、無理をしていると主張する人もいるが、事情の根本は変わらない。そもそも我を強く持っていなのか、あるいは自分を偽ることで我がないと隠ぺいしているに過ぎない。後者の場合は非常に危険だ。ゆくゆくは自分を偽り続けたことへの不満が爆発し、他のコミュニティーで憂さ晴らしをするか、そのような都合のいい環境がなければ究極的には自殺する。もちろんこれは極論であるが、いじめの被害者による最後の救済手段がそうであるように、身近な社会問題にまで発展している。また、DVによる被害を被害者が認知できないのは、自分こそが第一の幸福享受者であることを忘れているからだ。女が夜中に悲鳴をあげ、男が怒声をあげ激しい物音がする。明らかに第三者から見ればそれはDVであるのに、DV被害でないと断言する女はこう語る「自分があの人を満足させられなかったのが悪い」。自分が悪いと主張し、相手のほうの幸福を第一に考えているのだ。いじめられたのか、頬に痣のある少年に、怪我を負わせた少年とはもう関わらないほうが良いと忠告すると、少年はこう語る。「あいつ友達で、俺が怒らせるようなことしたから」。ここでも自分に何かしらの原因があると被害者は思い込む。思おうと努力すると言ってしまったほうが良いか。自分の幸せとは、貢献によってではなく、自分があくまで主体で幸せになることであり、暴力を振るう相手が幸福を享受する仲間とは到底呼べないし、ましてやパートーナーとは言えない。それでも被害者がそんな相手を仲間、パートーナーと思えるのはなぜだろうか。さきほど述べたように疎遠や孤独を嫌って、ということもあるが、それだけでは身の危険まで誤魔化すことはできない。そこには歪んだ協調性ともいえる献身的態度を貫き、相手の幸福が実現することで初めて自分の幸福は成り立つのだと言い聞かせ、ある瞬間が到来することを辛抱強く待つ被害者がいる。それは、相手への貢献に対する見返りがなされる瞬間だ。なんと暴力を振るう相手が突如として優しく接し始めるのだ。その優しさは、暴力を振るった直後で起こることが多く、今までの暴力を耐えることで得られる報酬だと被害者は勘違いするのだ。それゆえ、端からみれば明らかに異常な関係であるのに、彼らのなかでは、特に被害者にとっては、たしかに恩と恩返しは、努力したことへの見返りは、存在しているのだ。

 

彼らが幸せならばそれはそれで構わないが、間違った幸福の感じ方をしているのは明らかだ。端的な例を挙げたが、ごく日常で溢れかえる自己の偽りも、彼らと同じく貢献者であることを快く思っているのと変わりない。あくまで自分が幸せになるために、仲間とは存在するのだし、社会が存在する。自分の努力を踏みにじり、幸福を叶える素振りも見せない社会など自分にとっては必要ない。いつまでもそんな社会に属するのは、時間の浪費だし、なにより自分のためにならない。自己が中心でなくて、何が中心となりえようか。一般論批判においての結論として、すでに作られた基盤に乗っかったコミュニケーション、一般論が飛び交う議論など、すでに出る答えが決まっていることがわかったはずだ。それは人間のコミュニケーションとは言えない。先人というプログラマーが築いた言語パターンをただ演出するロボットたちの埒のあかない戯言だ。我々には、既定の事実に異を為す自我があり、それを活かすのに絶好の的が一般論だ。一般論を批判し、改善したオリジナルの一般論を受け入れる社会こそがあなたの居場所ではなかろうか。