日々の考察しるし

かたっくるしく、尚且つ無編集のブログが売りです。

どういう経緯で神のような超越的な概念が生まれたのだろうか。

 

神の起源としては、モーセの十戒に登場するヤハウェか。十戒と称する通りこの神の存在意義は「戒め」だと言える。すなわち人を個人単位で放っておくと何をしでかすか分からないために、人を超越したものが存在する必要があると、当時では考えられた。しかし、この後ユダヤ人による選民思想が色濃く出てきたため、戒めは戒めでも方向性が変わったように思われる。そしてこれは仏教での上座部仏教に成り立ちの事情こそ異なるが、ゴールの内容は酷似している。

 

一方で仏教つながりの大乗仏教をみると、日蓮の思想、悪人正機では仏が人を戒める存在とは到底言えない。先ほどの登場の仕方が消極的な見方であったのに比べて、今回は積極的な見方となっている。

 

神と仏、どちらが上かなどは私のような無神論者(ただし神がいるということには賛成だが、世界に干渉する意味合いは否定的)にはどうでも良いことだ。肝心なのは、どうして神がこの世界に干渉しなければならなかったのか、ということ。この世界を創ってそのまんまでも良かったはず。しかし、人は神の干渉を強く確信していた。ここにも人の根本的な願望が秘められているようにも思われる。

 

加えて「内在」ではなく、存在という客観的な意味合いを望んでいたのも興味深い。というのも、キリスト教の生みの親イエスキリストの言葉の中には、神の国とはただ中にある、つまり各々の心の中にある、というものがあり、当時のローマ人はこれに反発した。存在しなければならないのだ。ただ主観的に目視可能、認知可能では意味がない。宗教とは自分だけが信じていればそれで良い、というわけにはいかない。誰かにも何故か教えを共有しなければならない。昔も今も、そのことは変わっていない。