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日々の考察しるし

かたっくるしく、尚且つ無編集のブログが売りです。

偽善とは何だろうか

 

なぜかタイトルは毎回こう、かたっ苦しいのがいけない

しかし、これが私なのだからこれも仕方がない。

 

ところで、今となってはありふれた話題で、ホットの話題というわけにもいかない。   だが、やはり一度決着しておきたいものの一つが「偽善」の意味だ。もちろん辞書的な 意味は確認済みだが、どうもこういった言葉は時代の流れで掘り起こされて、違った意味で多くの人が使われる。また話が長くなるため、要点を言うと「善とは絶対的なものであり、故に存在しえない」だ。

本題に入ろう。まずは文字の作りから着目したい。すると、「偽善」があるからには「善」があるということがわかる。そして、この善というものの起源は、ソクラテスとその弟子プラトンだ。だから、彼らの言う善こそに、善のエッセンスがあるに違いない。前者は善く生きることを人間の理想人生に掲げた。一方の後者は善のイデアの存在を立証した。イデアとは話すと長くなるのだが、人間のイデアは穢れなき魂のようなものだ。人間が死ねば肉体(檻)は滅びて、魂はもとあった神々の国へと回帰する。人が美しい花を見て感動するのは、「美しい」という感情がその花のイデアに対して観想(神々の国にいたころを思い出す)を起こしたからだ。美しいイデアの備わった花は誰が見ても美しいと思う。なぜなら人そのもののイデアがみな元(神々の国にあったころ)は共通(普遍)だったからである。そこで、今回挙がっている善のイデアとは、誰しもが思う善、いわば絶対的な善の存在という意味になる。話が前後するが、ソクラテスの善く生きるとは、私にもイマイチ分からない。しばしばこの実践例をソクラテスの死を挙げる人がいるが、これは正しい実践例とは言えない。 ソクラテスは結局のところ、逃れられる死を逃れなかった。死刑を受け入れたのである。 だが、逆らわずして死ぬことが果たして善いことなのだろうか。社会の過半数がソクラテスの死刑を望んだが、その残りのものは断固として死なせないことを望んだ。有名なソクラテスの弁明の中には、ソクラテスは死ぬことで偉大な先人たちと問答できるから、喜んで死んだ、と書いてある部分がある。彼の真意は分からない。

 

今見てきたように、プラトンは絶対的な善を仮定にしていた。尚且つ神々の干渉も前提としていた。これらは現代世界には通じ難いものがある。だが少なからず、善の存在は絶対的であり、その絶対性は神の存在が必要だ。となると、善など存在しないことが解わかる。

人の手しか加わらない善は、もはや偽善とならざるをえない。また、自分がたとえ善行だと思っても、他人が見れば偽善なのは必然である。なぜなら、これも個人がどう判断するしかないからだ。だが、それでは殺人をその人が善行だと思っていたから、それはそれでも良いという解釈にもなりかねない。人が善く生きる前にはすべきことがある。つまりはそういうことなのかもしれない。