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日々の考察しるし

かたっくるしく、尚且つ無編集のブログが売りです。

民主主義考察

便乗ではないが、なにやら吉本新喜劇の座長さんが「行き過ぎた民主主義よりは独裁の方がええやん(2016/4/13)」と述べた。ネットではこのことについて、多くのバッシングを浴びせたられたようだ。ここで先に私の見解を言うと、現状の民主主義を続行するくらいなら、独裁の方が、人間がより幸せになりやすいという意味合いで良い。しかし、私は民主主義を望む。これから述べることの順序としては、①民主主義と人、②独裁を望んだ知識人、③これからの民主主義、となる。

 

  1. そもそも人は民主主義を望んでいなかった。自分たち民衆が主権者となって政治を行うとしても、民主主義である以上多数決を行う必要がある。せっかく自分があくせく考えて選んだものが無駄となってしまう可能性が生じてしまうこともある。それこそが若き民衆との政治意欲の自発的な障壁となってしまった。それは民主主義確立以前の人にも当てはまるし、今日の人にも未だに当てはまる。しかし、多くの人がその政治形態を望んだことによって晴れて民主主義というものは実現された。ではなぜ望んだのか。それは他でもない我が身に迫る危機が民主主義確立期ないし直前にはあったからである。例えば、民衆に国を豊かにする以上の重すぎる税を課して、自分の懐ばかりを肥やす暴君が生まれれば、それだけ彼らは自分の身に危機を感じる。(この例は民衆がその被害者だが、民主主義の歴史をたどると、始まりは貴族がその被害者である)逆に、その独裁者が賢明な者であれば、それだけ民(一部のマイノリティーを除く)は自分の主とする仕事だけをしていれば豊かになれたのだ。この場合民は、自分たちが主導の政治をしようとなどは思わないことが、多数決の件もあってわかるはずだ。このようにして、独裁者の政治が善し悪しを行ったり来たり繰り返したせいで、すぐさまに民衆が危機を感じることはできなかったのかもしれない。もちろん貴族と民衆は着々とその危機を感じ取り、事の発端はマグナカルタ、次にビルオブライツ、そしてアメリカ合衆国憲法が作成されていったように、長い歴史を見ると民主主義へとは進んでいる。 
  2. 先ほど挙げた独裁者の後者が常に政治をしていれば、これほど民衆にとっても、政治を行う側にとっても、有り難いものはない。これを古代の知識人(哲人)らは、実際の政治形態にも想定していた。しかし、善き独裁者は続かないのである。なぜなら、その王が勝ち取った栄華というのは、その王だけのものであり、息子にその権益は授けられない。賢き哲人が国を治めることに成功して、後継者がその賢き哲人に認められても、後継者はその賢き哲人ではないのだ。また、その賢き哲人が自分の国の全国民を、見て回る時間はない。ここに公平性の欠如も見受けられる。これらから言えることは、善き独裁者というのは必然的に続くものでは決してないということだ。より合理的にそしてより公平に、万人(マジョリティー)のための政治を行うには独裁主義というのは選択肢としてないのである。もちろん、ここでも注意が必要である。それは、規模と人権の問題だ。そもそもその古代の知識人らが生きたアテナイの人口は二十万人ほどであり、内奴隷は三分の一ほどもいた。このような中での善き独裁というのは、現代の一国の善き独裁に比べて容易い。つまり、必然的な善き独裁が続かなくとも、偶然的な善き独裁は起こりやすいということだ。なぜなら人口規模が小さければ小さいほど、独裁者は民衆らをまとめやすいし、奴隷には好き勝手な重労働を課せられるからである。つまり、その組織の人口規模が万単位以下で、尚且つ奴隷のように扱える存在(弱者)がいれば、善き独裁はそれだけ可能性として考えられるのである。たとえ古代の知識人であっても、異常なまでの人口爆発と、奴隷制度の全面的な撤廃、女性の社会進出を想定できていたようには思えない。そのため、彼らの主張は時代の異なる我々に少なくとも独裁国家の是を認めさせるほどの説得力はないのだ。
  3. だが、彼らの言う民主主義の危機をうまく払いのけているとは今日の社会を見る限りでは到底言えない。ナチスを例に挙げるまでもなく、もっと身近なところに民主主義の落とし穴がある。それが、民主主義の大本は民意の質と議論が大前提にあることだ。私はこの両方を同時に向上させられるものとして、慣習の再確認が向いていると思う。今の慣習は、なぜ守らなければならないのか原因結果の因果関係を分かりもしないのに、社会が父権的な圧力を掛けているから、ただ守らなければならないとする空気である。この圧力を作り出している社会というのは、他でもない民衆だ。そして、その民衆ですら、なぜ守らなければならないのかを客観的に述べることはできない。つまり、普遍的な説明が出来ない。この空気がなにであるのか、どうして守らなければならないのかを民衆各々が考えれば、少なからず民主主義の大本となる民意は向上する。そして、その是非を各々が日常会話で何気なく話すことが難しくとも、一定の機関を設けて話し合う機会があれば、議論の確保となる。

つかれたのでとりあえずここまでとする。