日々の考察しるし

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人をアホにする科学

今日、久しぶりに啓蒙的な番組をテレビで観た。内容は、疑似科学についてだったのだが、何とも考察が薄っぺらで、もう少し何とかならなかったのかと思わされるほどだ。今回は、実際に番組で扱われた例を挙げながら、意見を述べていきたい。中でもその例は①幽霊の存在、②占いの信憑性と分けて最後に結論を述べたい。

 

  1. 幽霊の存在

まずは番組での扱われ方だが、簡潔にまとめると、幽霊というのは人間の危険回避能力が生んだ幻想に過ぎない、というのである。そのことの真偽はおそらく真に近いと納得がいく。しかし、それだけで一部の人が幽霊の存在を強く肯定するようには思えない。なぜなら、幻想によるものだと理解していてもなお幽霊がいると主張する人たちは後を絶たないからだ。具体的にいうと、Aさんは暗闇の中で霊に遭遇したとする。そこでAさんは理屈でもって、その霊をいないものとしようとする。だが、そんな途端に冷静になれるだろうか。いるものだと思って信じていたものが、いないものだと思考を180度回転するのは不可能に等しい。もし、そんな途端に冷静になれるのであれば、Aさんは端から霊の存在を信じていないと解釈すべきではないだろうか。つまり、端から理屈だけで幽霊の問題を解決しようというのはナンセンスであり、ことはそんな単純な話で終わらない。幽霊という感覚的な概念には、感覚的なプロセスを踏んで考えなければならない。実際Aさんは理屈でもって霊をみたのではなく、視覚という感覚でもって霊をみたのである。正直なところ、みたものをみていないとするのは、困難なことだ。そこで思うのは、そのままで良いのではないかということ、つまり霊が見える人はその存在を信じればいいし、見えない人はその存在を信じなければいい。そもそも霊とは万人に見えるものではない。見えないものの存在とはすなわち存在することの立証も、存在しないことの立証もできないのだ。なぜこういった科学の解りやすい部分だけをピックアップして、人は自分とは相いれない人のことを理解した気になろうとするのか。これは次の②にもあてはまる。

 

 2.占いの信憑性

占いを信じると言っても度合は必ず人によって異なる。運勢占いをみるすべての人が、その占いを信じ込んでいるわけではない。そんなに人はアホではない。だが、番組では占いや、お守りの効能を信じる人すべてが一緒くたに、ねっからそれらを信じ込んでいるように扱われていた。信じる図式を、ある法則性を見出すことによって合理化していると番組では述べられていたが、なんだか無理が過ぎるものに思われる。実際取り上げられていた例に則すと、交通安全のお守りをして安全運転を心がけるドライバーが、お守りの効能を信じ込んでいるように描かれていた。何とも滑稽な話に映るような演出だが、そんなアホなドライバーは実際何人いるだろうか。少なからずドライバーは安全運転をしている時点で、お守りの効能など信じていない。この際のお守りの本来の位置づけとは、神的恩恵を願うための対象ではなく、感謝の対象である。その日も安全に運転できたことへの、何かしらの感謝を示していると解釈した方が、合点がいくのではないだろうか。事故しないという結果を、自分の運転こそがすべての原因にある。そうドライバーが思うことを先天的に抑止して、初心を忘れないための戒めとしてそのお守りはあると言える。あるいは感謝と、気休めとしての二重の意味を持つとも捉えられる。このように、本来複雑なはずの人の信仰心のメカニズムが実は簡単なものだったとするこの番組は、稚拙極まりない。これを観る視聴者が霊や占い、お守りを信じる人を小ばかにしないことを願うばかりだ。