日々の考察しるし

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民主主義考察その二

以前の考察では、結局のところこれからの民主主義には民意の質と議論が必要であるというところまで述べた。今回はそれら二つがなぜ必要なのかについて述べたい。例のごとく文章の流れは①民意の重要性、②民主主義における議論の存在意義、となる。

 

  1. まずは本題に入るまえに、民意の意味を確認しておきたい。辞書的な意味では民衆の意志であるが、そうすると意志とは何なのかという話になってくる。しかし、ここではそのことについて深く議論すると、話の趣旨から脱線してしまうため、大まかに民衆の望む傾向、流れだと解釈してほしい。そこで本題に入るが、民意の質がなぜ高いものとなっていなければならないのか、これについてはその逆を考えてもらえばわかりやすい。つまり、なぜ民意の質が低いといけないのかということである。民意の質が低いということは、それだけ民衆の望む傾向に統制がとれていないということだ。簡潔にいうと各々が自分の好き勝手なことを言い出して、結論がまとまらずに無生産な状態だ。経済学でいうところの囚人のジレンマが社会全体で起こっていると考えると、その恐ろしさがわかる。このように民意の質が低い社会(複数の人が集まって構成されるコミュニティー)というのは、一定の妥協点を民衆自らが会話によって見出し決着させられない不毛な議論が続くものである。これは民意の質が特に、ある人の人権と他の人の人権という最高の権力の衝突を解決するために特に重要だとも言える。

 

  1. 議論について今まで散々触れてきたが、議論とは何だろうか。辞書的な意味では「自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして、論じ合うこと」となっている。ここには結論を出すこと、あるいは妥協することについては触れられていない。つまり自分の言いたいことを言うだけ言って、相手が論じて自分が聞くときには聞かないのも議論なのだ。なんと不毛な子供の喧嘩であろうか。しかし、それこそが先ほど述べた民意の質が低い社会に起こりうる議論なのだ。そこから分かることとして、議論というのはその社会における民意の質を顕著に反映すると言える。おそらく多くの人が思い描く議論というのは、議論の参加者が論理的にあることについて持論を話して、それに対応して相手が同じように論理的に持論ないし他の文献を引用して応える、そういったものではなかろうか。もちろん、これも議論ではあるが、極めて民意の質が高い(民衆の統制がとれた)議論のあり方だと言える。今回、議論がこうあるべきだ、とまで踏み入った話はしないが、これからも考察するうえでどれだけの議論が約束されるべきか、ゆくゆくは結論付けたいと思っている。また、同時に私の掲げる、議論を義務教育の一環として科目化することもいずれまとめたい。