日々の考察しるし

かたっくるしく、尚且つ無編集のブログが売りです。

BF4:圧倒的な試合

こんにちは。もうじきランクが140にいくところで、中級者も卒業というところ。そこで、今回は試合の考察をしようかと。

メトロで試合をしていると、しばしば思うのが圧倒的な試合による弱い者いじめ。もちろんこれは私の価値判断によるものだが。圧倒的な試合とは、メトロにおいてABCを完全に制圧されていること。こうなると負け側は普通正面突破でひっくり返すことはできない。そのため裏取りをしてひっくり返すことになる。しかし...そう容易いことではない。なぜなら、もはや味方がスナイパーへと武装し、ピシピシ合戦を開始して、前線を掻い潜るには自分の力量が問われるからだ。

もし、この状況が均衡のとれたチームバランスにおいて起こったのであれば、ひっくり返すことは不可能ではないかもしれない。だが、既に全拠点を完全に制圧されているような力量差でそのようなバランスがとれているとは現実的に考えがたい。強者がどちらかのチームに偏っていると想定した方が、この場合は合理的である。弱い者いじめ、とはそういうことである。

強者の不利ジョイン、これが最もその現状を打破するのに適当な策であろう。だが、不利ジョインは一部の人に嫌われる。裏切り行為に類似しているからである。現に私はかつてのフレンドに憤りをぶつけられた。彼らの言い分は感情論であるが、道理に沿っているとも言える。それに圧倒的な勝ち試合をつまらないと思う人がいる一方で、それを楽しむ人もいる。結果的に言えることは、少なからず不利ジョインというのは、必ずしもカッコいいものではないし、他人(強者)にお願いするべき行為ではないということだ。しかし強者が一方のチームに偏って、もう一方のチームの人たちが虐げられるのはいかがなものだろうか。

ゴミのポイ捨て考察

今回はゴミのポイ捨てをする人の心境や、その行為のメカニズムを考察していきたい。といっても、実際に当事者に聞き取りをしたわけでもないし、ポイ捨てをしたことのある人を直に見たのは二回だけなので、単なる空論程度にしか考察できない。

 

①ゴミのポイ捨てをする人の心境、メカニズム

まずは一般論から話を進めたい。ゴミを不法投棄するのは、その場所があらかじめそうされることが安易に想定されるような要素を持っていることが多い。簡単にいえば、ある時ゴミが不法投棄されるその場所に、既にゴミの先客が滞留しているということだ。この理由は、概ね集団心理によるものである。なぜそう言えるのか、もとより一定の教育を受けた人間であれば、不道徳な行為をすることはその人の良心により背くことが困難であるからだ。そのため、ゴミのポイ捨てをする先駆者というのは容易に登場しがたいものだ。しかし、ひとたびその先駆者が登場すれば、多くの人々が先駆者にならずして、ゴミのポイ捨てができる。こういったメカニズムを経て、ゴミのポイ捨ては恒常化されていくのである。

 

②先駆者の心境

では先駆者はどのようにして登場しうるのか。大半は「なんとなく」だろう。そんなものに大それた目的があるようには考え付かない。では、彼らはゴミのポイ捨てをしない人と比べて異質なものだろうか。それは違うだろう。これはその単独の行為そのものを見ていてはピンと来ないかもしれないが、抽象的に言い変えればわかりやすい。すなはちゴミのポイ捨てとは、不道徳な行為である。不道徳な行為と規定すれば、それは嘘をつくことと何ら変わらない。もちろん程度によりけりではある。しかし、「なんとなく」したポイ捨ては不道徳といっても、ゴミを単に道に捨てる程度のものであり、それ以上の目的は存在しない。捨てられたゴミの付近に住む人ないし歩行者に迷惑を掛ける程度のものだ。一方で嘘を他人につく行為は、これも程度によりけりだが、嘘は嘘でも、その場逃れでついた嘘はそれを信じた者に迷惑を掛ける程度のものである。つまり、「なんとなく」するポイ捨てと、「その場逃れ」でついた嘘は他人に自発的に迷惑を掛けようとしたものではないという点で似通っているのだ。ここまでが考察。

 

③昨日の体験

実に昨日の昼の話だが、一年ぶりにたばこの吸い殻拾いをした。といっても、範囲にしてグラウンド周りのみで、時間にして30分である。結果は煙草42本と、ペットボトル一本、空き缶一本であった。

モブサイコ100 5話考察

こういったことをするのは初めてなので、以後続けるかは分からない。また、原作は読んでいない。

 

1.テルの心境―焦燥

モブサイコ100の5話を観ての考察だが、主に今回はテルキという少年の心境の変化に焦点を当てたい。彼は常に超能力という才能に自分らしさを見出しており、超能力は自分にしか与えられていない才能だとも捉えていた。そして同時に、超能力こそが相対的に最も優れた能力であると彼は確信していた。このことから、彼がなぜ自分に強い自信を持っていたのか、が分かるだろう。しかし、モブという少年に出会い、その自信は揺らぐ。なぜなら自信を生み出す源である超能力を他の人も持っていたからである。そのために彼は競争せずにはいられなかった。どちらが上なのか、そのことをはっきりさせて安心したいのだ。今まで数学の試験で満点しか取ったことのない少年が、あるとき受けた数学の試験に苦闘し、終わったあとすぐにその結果をみたいのと同じように。

 

2.テルの心境―もどかしさ

競争を望むテルとは対照的に、モブは競争を拒む。(これはモブ自身がその競争に負けるか否かを不安に思っているわけではなく、彼には彼の意思があるからだが今回は触れないでおく)この構図からテルはあることを気づき始める、自分は超能力に固執している、依存している、超能力がない自分には何が残るのか、と。このことがよりいっそうテルの焦燥を加速させたことは言うまでもない。テルがモブに超能力を使わせたかったのは、相手が超能力で応戦してくれば、今まで自分が抱えていた未確定の不安要素はすべて、相手のやせ我慢が原因だったと解釈できるからだ。

 

 

3.テルの心境―崩壊

そして、いつしか競争相手であるモブにそれらの心境を理解されてしまう。空気を読めない、相手の心を読めないモブでも、自分と立場が似ている人の心は理解できる。理解されたテルにとって、もはやその不安は確定されたのと同然だった。気づき始めていたのが、気付いてしまったのだ。そのために、超能力ではなく物理的な絞首という手段によって、その絶望をモブにぶつけたのだろう。モブが気絶したときに、つまり超能力による競争ではなく名目のない試合に勝利したときに、テルが喜びに満ちた顔をしなかったことも頷ける。

この後はナレーターのいう通り。

 

それにしても落ち武者の場面はやはり笑ったが、そのあとその皮肉めいたものを感じてしまったな。

役に立つ、役に立たないものたち

三年ほど前だが、私は国数英理社の科目を勉強していたとき、こんなことをしていて何の役に立つんだと疑問に思っていた。そして半年前、小学校にいる老人に子供は遊ぶのが仕事で、勉強なんて何の役に立つんだ、今(自分には)全く役に立ってないと言われたことがある。そう、この問いは多くの人たちが持っていることのように思われる。また一方で、では役に立つものとは何だろうか。畑を耕すことだろうか。人を巧みに使いこなすことだろうか。先に結論をいうと、それらは役に立つ一方で役に立たない。

 

人はあるものに有用性を見出す際、それ単独を考えることは稀有である。このことは金を仮定すればわかりやすい。金を食べたりぶつけたりしても、腹は満たされないし獲物を捕らえることは難しい。しかし市場というものを媒介にすると、ひとたび金の価値は跳ね上がる。これは金に食べる狩るなどの使用用途以外に違った価値を見出すことが可能であるからだ。このように人はその物の価値を考えるときは何かしらの要素を媒介にしていることが多いものである。これは当たり前の事であり、何を今さらと思われる事実かもしれない。そのために見落としやすい。国数英理社の例に戻ってみよう。一般的にこの中で最も役に立たないと思われがちなのが社であると仮定する。そして社でも、邪馬台国は北九州にあったのか近畿にあったのか、についての論争に有用性の是非の的を絞ってみる。どちらにあったにせよ、当然腹は満たされないし、それが日本人に影響するわけでもないように思われる。しかし、邪馬台国こそが最古の朝廷だということが判明した場合どうだろうか。それは日本政府の起源を考えるうえで貢献するであろう。といっても、今日の日本人には実感のわきづらいものかもしれない。しかしその事実が役に立つか否かはその後の見方の変化によっていかようにも変化しうるものだ。このことを端的に示す例としては、着色料、保存料などを考えるとわかりやすい。着色料が入っている事実を今まで軽視してきたのに、ひとたびテレビ番組でその危険性が科学的に証明されたとなると、人々はこぞって着色料に対して嫌悪の眼差しを向けるのだ。

 

何が役に立ち、何が役に立たないかという判断はその人がどう生きるかである。半年前に出会ったその老人は少なくとも国数英理社の役立て方を学んでこなかったのだろう。歴史学の有用性にもう一度焦点を当ててみよう。外人に向かって日本人の良いところ、日本の良いところは何だ、と問うテレビ番組はしばしば見かける。それは日本人がそれだけ自分たちの良いところを理解していない、自信が無いということに直結するのではないか。外人がむしろそのことを聞きたいはずである。そういう時に先ほどみた邪馬台国を用いれば、日本の独自性とはこういった政治形態があったことで、それはごく最近まで続いていた、と歴史的に説明できる。

迷惑考察

日本人であれば、子どもの頃から「他人に迷惑はかけてはいけない」と教えられたことだろう。もちろんそう教えてこられなかった人もいるだろうが、その人もこのことについて、すなわち迷惑とは何かについて考えていただきたい。

まず、迷惑とは辞書的な意味で、他人のことで煩わしく嫌な目にあうこと、となっている。つまり、迷惑という感覚が生じるには他人という存在が必要だといえる。そして、煩わしく嫌な、という部分からはそれが消極的な効果を持っているといえる。以上の二点から、この考察を進めていきたい。

他人を通じるにしても、そのこと自体に消極的な効果は期待しえない。それが発生するには、他人と何かしらの部分で衝突しなければならないはずである。その何かしらの部分とは何だろうか。(このことが今回の考察の要となる)

先に私の結論をいうと、それは他者がある環境において持っている模範的行動である。ここから導かれる迷惑の発生原因は、自分と他人とが各々持っているある環境においての模範的行動の衝突である。

具体的に、電車内を想定する。仮定としてAさんにとって電車内というのは、大人しく会話するか、ただ座ったり立っていることが模範的行動、許容範囲内の行動であり、飲食やうるさくしゃべることは不適切だったとしよう。そしてBさんにとっては飲食やうるさくしゃべることもまた模範的行動、許容範囲内の行動であったとしよう。この場合、AさんとBさんの電車内における模範的行動、許容範囲内は異なる、つまり衝突する。故にどちらか一方がもう一方の行動を迷惑だと捉えるのである。

そして、迷惑だと感じる側はその模範的行動、許容範囲内の行動が迷惑だと感じない側よりも狭い、といえる。なぜなら、広ければもとよりもう一方の行動はその範囲に収まるからである。このこと自体は迷惑という曖昧な感情表現を明確にするためのものであり、それ自体に何か未来的価値は存在しえない。つまり、これを何かに活かすということは期待できない。

しかし、このことから迷惑だと感じやすい人が、心の狭い人だと断定することはできないことが分かる。心が狭いのではなく、模範的行動、許容範囲内の行動が狭いのだ。今後はこの模範的行動、許容範囲内の行動をもう少し違う言い方ができないかを模索しながら、これらがどう形成されていくのかを考察していきたい。単にその人の生きてきた人生観といいきってしまっては、単純過ぎるように思われる。

真実とは常に二つある

すなはち内的真実と外的真実である。前者は、その出来事の原因結果を起こした当事者が知っている場合である。一方で後者は、その出来事の原因ないし結果を断片的に知っているか、その一方しか知らない場合である。

例えば、おねしょをした少年が母親にそのことをバレたくないために、その布団を洗って干したとしよう。すると母親はなぜ干しているのかを少年に問うと、少年は寝汗で汚れたと言った。この場合、内的真実を知るのは少年だけであり、母親は外的真実しか知り得ない。

数学において、公式のみを理解しているのは外的真実を知っているに過ぎない。歴史学において、彼らの研究は外的真実を限りなく内的真実に近づける作業である。自然学は神のつくった内的真実(奇跡)を解明しようとする試みであった。

いったい自分がどちらを理解しているのか、それが分からない段階でその真実の価値を考えたり試したりすることはそれだけアホらしい。

舛添氏の問題

最近でもテレビをつけると、彼の政治資金についての問題が取り上げられている。

そもそも彼の政治資金問題はどうやら政治資金規正法では違法ではない、とある識見者が答えている。では、それほど彼の処分に関して騒ぐべきことだろうか。彼のしたこと、すなはちピザ釜作りの本が政治に関係あるかないかという煙を掴むような議論を続けることに労力を費やすべきだろうか。はっきり言ってどうでもいい。

舛添要一という個人を責めることではなく、この問題を取り巻く環境(政治資金規正法の欠陥性、政治資金におけるその支出)を考えなければならない。
なぜならセコいという主観的な価値判断をしても、不毛でしかなく、ましてや在日韓国人だとかどうでもいい。これら二つは後の日本の政治の質を向上させることに関係しないからだ。

そして彼に質疑応答をするのであれば、
「今後どうすればあなたのような私的な目的のために政治資金を利用するひとを減らせるでしょうか。」と聞きたい。彼を辞職させるか否かを決めるのは有権者である国民だけであり、公僕が口出しすることではない。だから質疑応答をする彼らは、この問題の根幹である政治資金規正法を見直すことに尽力するのが適切ではないだろうか。そしてお茶の間でみられる討論会は、政治資金規正法に関する詳しい解説をして、一刻も早く国民に正しい見地を養わせる必要がある。しかしどうだろうか。国民がただいたずらに普段の鬱憤を舛添要一個人にぶつけて済ませるように、メディアはもっていきたがっているようにすら思えるのだ。