日々の考察しるし

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迷惑考察

日本人であれば、子どもの頃から「他人に迷惑はかけてはいけない」と教えられたことだろう。もちろんそう教えてこられなかった人もいるだろうが、その人もこのことについて、すなわち迷惑とは何かについて考えていただきたい。

まず、迷惑とは辞書的な意味で、他人のことで煩わしく嫌な目にあうこと、となっている。つまり、迷惑という感覚が生じるには他人という存在が必要だといえる。そして、煩わしく嫌な、という部分からはそれが消極的な効果を持っているといえる。以上の二点から、この考察を進めていきたい。

他人を通じるにしても、そのこと自体に消極的な効果は期待しえない。それが発生するには、他人と何かしらの部分で衝突しなければならないはずである。その何かしらの部分とは何だろうか。(このことが今回の考察の要となる)

先に私の結論をいうと、それは他者がある環境において持っている模範的行動である。ここから導かれる迷惑の発生原因は、自分と他人とが各々持っているある環境においての模範的行動の衝突である。

具体的に、電車内を想定する。仮定としてAさんにとって電車内というのは、大人しく会話するか、ただ座ったり立っていることが模範的行動、許容範囲内の行動であり、飲食やうるさくしゃべることは不適切だったとしよう。そしてBさんにとっては飲食やうるさくしゃべることもまた模範的行動、許容範囲内の行動であったとしよう。この場合、AさんとBさんの電車内における模範的行動、許容範囲内は異なる、つまり衝突する。故にどちらか一方がもう一方の行動を迷惑だと捉えるのである。

そして、迷惑だと感じる側はその模範的行動、許容範囲内の行動が迷惑だと感じない側よりも狭い、といえる。なぜなら、広ければもとよりもう一方の行動はその範囲に収まるからである。このこと自体は迷惑という曖昧な感情表現を明確にするためのものであり、それ自体に何か未来的価値は存在しえない。つまり、これを何かに活かすということは期待できない。

しかし、このことから迷惑だと感じやすい人が、心の狭い人だと断定することはできないことが分かる。心が狭いのではなく、模範的行動、許容範囲内の行動が狭いのだ。今後はこの模範的行動、許容範囲内の行動をもう少し違う言い方ができないかを模索しながら、これらがどう形成されていくのかを考察していきたい。単にその人の生きてきた人生観といいきってしまっては、単純過ぎるように思われる。