日々の考察しるし

かたっくるしく、尚且つ無編集のブログが売りです。

役に立つ、役に立たないものたち

三年ほど前だが、私は国数英理社の科目を勉強していたとき、こんなことをしていて何の役に立つんだと疑問に思っていた。そして半年前、小学校にいる老人に子供は遊ぶのが仕事で、勉強なんて何の役に立つんだ、今(自分には)全く役に立ってないと言われたことがある。そう、この問いは多くの人たちが持っていることのように思われる。また一方で、では役に立つものとは何だろうか。畑を耕すことだろうか。人を巧みに使いこなすことだろうか。先に結論をいうと、それらは役に立つ一方で役に立たない。

 

人はあるものに有用性を見出す際、それ単独を考えることは稀有である。このことは金を仮定すればわかりやすい。金を食べたりぶつけたりしても、腹は満たされないし獲物を捕らえることは難しい。しかし市場というものを媒介にすると、ひとたび金の価値は跳ね上がる。これは金に食べる狩るなどの使用用途以外に違った価値を見出すことが可能であるからだ。このように人はその物の価値を考えるときは何かしらの要素を媒介にしていることが多いものである。これは当たり前の事であり、何を今さらと思われる事実かもしれない。そのために見落としやすい。国数英理社の例に戻ってみよう。一般的にこの中で最も役に立たないと思われがちなのが社であると仮定する。そして社でも、邪馬台国は北九州にあったのか近畿にあったのか、についての論争に有用性の是非の的を絞ってみる。どちらにあったにせよ、当然腹は満たされないし、それが日本人に影響するわけでもないように思われる。しかし、邪馬台国こそが最古の朝廷だということが判明した場合どうだろうか。それは日本政府の起源を考えるうえで貢献するであろう。といっても、今日の日本人には実感のわきづらいものかもしれない。しかしその事実が役に立つか否かはその後の見方の変化によっていかようにも変化しうるものだ。このことを端的に示す例としては、着色料、保存料などを考えるとわかりやすい。着色料が入っている事実を今まで軽視してきたのに、ひとたびテレビ番組でその危険性が科学的に証明されたとなると、人々はこぞって着色料に対して嫌悪の眼差しを向けるのだ。

 

何が役に立ち、何が役に立たないかという判断はその人がどう生きるかである。半年前に出会ったその老人は少なくとも国数英理社の役立て方を学んでこなかったのだろう。歴史学の有用性にもう一度焦点を当ててみよう。外人に向かって日本人の良いところ、日本の良いところは何だ、と問うテレビ番組はしばしば見かける。それは日本人がそれだけ自分たちの良いところを理解していない、自信が無いということに直結するのではないか。外人がむしろそのことを聞きたいはずである。そういう時に先ほどみた邪馬台国を用いれば、日本の独自性とはこういった政治形態があったことで、それはごく最近まで続いていた、と歴史的に説明できる。